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月刊薬膳コラム
■ 程さんの月刊薬膳コラム6月号 ■
「北大路魯山人 波瀾万丈の生涯(後編)」

前回は私のライフワークのひとつである、北大路魯山人の足跡の研究の一端をご紹介しましたが、今回も引き続き、魯山人について。国から人間国宝にと声がかかりながらも、辞退した、稀代の作家、前人未踏の美食家、魯山人。その実像は… 魯山人の考えは、いまの時代にも通ずることが多いと思います。ぜひ、参考に。

ほんとうの家族の絆、母と子供のふれあいを知ることなく、自らの書の才覚だけで世に出た北大路魯山人は、 中国に遊学して学んだ書の神髄、篆刻の心得を活かして、華々しく活躍を始めます。

明治43年に長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、福田大観の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残しています。この地での創作活動が高く評価され、日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、各地を食客として転々としながら、食器と美食の見識を深めていくのです。

そして、大正10年、日本初の会員制食堂「美食倶楽部」を発足。自ら調理場に立ち、また、食器や書なども創作していったのです。さらに、大正14年には 東京・永田町に魯山人の食の美学を結集した「星ヶ岡茶寮」という、いまとなっては伝説の料理店を誕生させます。美食家として名をはせた魯山人。この頃の逸話をもとに、人気漫画「美味しんぼ」の登場人物・海原雄山が描かれています。

大阪の豊中にも「星ヶ岡茶寮」がありました。大阪での美食倶楽部の会長は、かの阪急の創始者・小林一三翁。そこでは40人の仲居さんたち全員に、華道、茶道を学ばせ、立ち居振る舞いから教え込んだとされます。着物の柄模様までデザインしたと言います。完璧主義!

そうした上流社会での名声は、後年、昭和30年には、重要文化財保持者(いわゆる人間国宝)に推挙されるも断るという極みにまで到達しました。

こうした華々しい表舞台の一方で、魯山人は25歳から59歳まで5度の結婚離婚を繰り返します。数年おきに伴侶が変わる。それも星ヶ岡茶寮の働き手であったり、料理研究家であったり、新橋の芸妓(げいぎ)であったり。

この私生活の奔放を見て、人は魯山人を非難することが少なくありませんが、私は、むしろ、魯山人の誠実さの証しではないかと思います。当時の日本では、正妻以外に愛人を持つことは、成功者にとっては半ば勲章のようなものとして是認されていた風潮があり、逆に面倒な結婚離婚を繰り返したのは、そのときどきに、真の愛情を追い求めた結果と見るのです。

その愛情に対する埋めようのない飢餓感は、とりもなおさず、前回お話しした出生や人生経験から立ち起こっています。人が恋しい。家族がほしい。その願いが叶うことなく成長した幼少期の反動とでも言えばよいでしょうか。

では、魯山人の料理に対する哲学は、なにだったのか。

「生ゴミを出すな…」。魯山人はいま流布されるようなエコの考えをいち早く取り入れていました。食材に無駄なし。一葉たりとも無駄にしない。また、料理とは「理」をはかるもの。理屈がわかっていないと、いいものはできない。ただ、食材を切るだけの割烹とは違うと力説しています。

材料がよくなければ、ほんものはできないとか、また、食器は料理の着物であり、料理と食器のバランスこそが重要とも。中身を生かすも殺すも器次第。どちらかだけをたててもダメだと、現代にも通ずる本質を看破しています。

さらに基本は出汁であること。良い昆布、鰹節を見極めないで、どうするのか…などなど。魯山人の生涯を賭した食の美学は、いまなお輝いています。

そして、私は魯山人の足跡を顧みる度に、思うのです。いま、魯山人が生きていたら、現代の食をどう捉えるのか。

たぶん、あきれ果てて「俺の知ったことか!?」とでも、のたまうのでしょうね。先人が生涯を賭けて残した遺産を少しでも引き継いで行きたいと思います。



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